間(ま)をインターフェースに置く
要点
- 日本の美意識でいう「間(ま)」は、空白そのものを意味のある要素として扱う。
- インターフェースの余白や待機にも、この「間」の発想を持ち込める。
- 音楽家・武満徹は、沈黙を音と等価に測れるものとして語った。
- ただし、間は意図して置かれてこそ機能し、ただの遅さとは異なる。
能舞台で、役者が動きを止める。その静止のあいだ、何も起きていないようでいて、観客の集中はむしろ高まる。日本の芸能や建築が古くから扱ってきた「間(ま)」とは、こうした空白を、埋めるべき欠如ではなく、それ自体に意味を持つ要素として捉える見方だ。建築家・磯崎新が一九七八年に「間」を主題とした展示を国外で企画したとき、この概念は時間と空間の両方にまたがるものとして紹介された。間は、隙間であると同時に、拍と拍のあいだの時間でもある。
この発想を、画面の上の時間に重ねてみたい。インターフェースには、要素と要素のあいだの余白があり、操作と応答のあいだの待機がある。私たちはそれらを、しばしば「詰めるべき無駄」として扱ってきた。余白は狭く、待機は短く。だが間という見方に立てば、空白は減らす対象ではなく、配る対象になる。
沈黙を、測れるものとして
音楽家の武満徹は、一九七一年の著作で、沈黙について繰り返し書いた。彼にとって沈黙は、音の不在ではなく、音と並べて測りうる積極的な存在だった。音楽が音だけでできているのではないように、画面の体験も、表示されている要素だけでできているわけではない。何も表示されない一瞬、応答が返る前の静止——そこに置かれた時間が、続く動きの意味を決める。
たとえば、操作のあとにわずかな静止を置いてから結果を見せると、その結果は唐突に飛び込むのではなく、到来として受け取られる。逆に、間を一切置かずに次々と情報が現れれば、利用者は拍を見失い、急かされる感覚だけが残る。ローディングの拍を整える設計は、まさにこの静止の置き方を扱っている。
意図された間と、ただの遅さ
ここで慎重に区別しておきたいのは、間とは意図して置かれた空白だ、という点だ。能の静止が観客の集中を引き寄せるのは、それが計算された停止だからであって、役者が次の所作を忘れて固まっているわけではない。同じように、インターフェースの間が機能するのは、それが設計された休止であるときに限られる。サーバーが詰まって応答が返らない待機は、間ではない。ただの遅さだ。
もっとも、両者は見た目には似ている。だからこそ、利用者が「これは意図された間だ」と感じられる手がかりが要る。輪郭を先に見せる手法や、静止のあいだに置かれる小さな視覚的合図は、その手がかりとして働く。一方で、合図さえ置けば遅さを間に変えられる、というのも行き過ぎだろう。土台にある応答そのものが破綻していれば、どんな演出も空疎になる。裏を返せば、間は、実態が整っていてはじめて、空白に意味を宿らせることができる。
余白を詰め、待機を縮める努力は、それ自体は正しい。だが、すべての空白を敵とみなすと、画面は息継ぎを失う。間という見方は、空白を一律に削るのではなく、どこに静止を置けば続く動きが生きるかを問う。じゃーん、と結果が鳴り響く前の、わずかな沈黙。そのひと呼吸を意図して配れるかどうかに、待機の設計が単なる速さの競争を超えられるかが懸かっている。間は、時間を奪うものではなく、時間に輪郭を与えるものなのだ。
参考文献
- 武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』新潮社, 1971.
- 磯崎新(企画)「MA: Space-Time in Japan」(「間」をテーマとした国際巡回展), 1978–.